日本の新型コロナ禍にエンジニアとして感じること

新型コロナウイルスの関するここ最近の日本の状況について思うことを投稿します。久しぶりの投稿がこのような話になるのはとても残念なのですが、このところ感じていることを一度言葉にして整理しておいた方が良い、という思いが湧いてきたのでしたためておきます。

素朴な疑問を大切に

まず、日本と世界の状況を見たときに浮かぶのが以下の疑問。

  1. 世界でも類を見ない超過密、インバウンド都市の首都圏で、真っ先にコロナが入ってきたであろうはずなのに、患者や重傷者の増え方が欧米に比べて圧倒的に遅いのは何故なのか
  2. PCR検査だけでなく抗体検査や免疫仮説の検証を実施して日本の実態を掴むことは今後の戦略を判断する上で重要な参考データになるはずなのに何故かそれをスルーしている(きた)
    (先日ようやく政府も調査に乗り出すとの発表があったようです。)

僕は以下のサイトを良く眺めていますが、日本の感染拡大状況は短期間で甚大な被害が出た欧米とはあまりに違い過ぎるのが不思議でしようがありません。とても同じウイルスとは思えないほどです。

新型コロナウイルス 国内感染の状況
日本国内において現在確定している新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の状況を厚生労働省の報道発表資料からビジュアル化した
Coronavirus tracker: the latest figures as countries fight the Covid-19 resurgence | Free to read
The FT analyses the scale of outbreaks and tracks the vaccine rollouts around the world

こういったデータを見れば誰もが抱く素朴な疑問ではないかと思うのですが、今のところ日本人の行動様式効果仮説、BCG免疫効果仮説、S型蔓延済み仮説、人種的自然免疫力仮説など様々な仮説があるようです。ただ、こういった疑問に対する政府やマスコミの反応は鈍く、何故かそういった議論を封じようとする声も巷であるのはちょっと気になります。

データを先入観で眺めてしまうのが人間

エンジニアやプログラマは障害のデバッグをするとき、まず客観的データをできるだけ多く集めて、そこかからいくつかの疑問点を見つけ出し、仮説を立て、検証を繰り返して調査します。開発やプログラミングをしている方なら共感してもらえるかもしれませんが、大抵すぐに思いつくような仮説というのは裏切られることが多いです。デバッグを何度も繰り返していると人間が如何に先入観に左右されて都合の良い論理構築をしてしまう生き物かということを、自分の間違いを通して思い知らされます。だから、そういう「人間の弱さ」のようなものをまず認識した上で間違った判断をしないように、データへの先入観を排除するよう思考の訓練をしたり、多様な意見を集めたり、検証プロセスを可視化・改善することで対処する訳です。バグを憎んで人を憎まず、です。

複数の仮説を立てて検証する

コロナの話に戻します。毎日、世界や日本の感染者数や死者数の推移データ等を眺めているとどうしても上に上げたような素朴な疑問や違和感が湧いてくるわけで、それに対して、仮説1、仮説2、仮説3、プランA、プランB、プランCを用意してそれらを丹念に検証しつつ、柔軟に対策を軌道修正することが、未知な現象に対する冷静な態度ではないかと思います。

でも今の社会の風潮を眺めていると何となく一つの仮説に拘って他のプランを排除しようとしているように見えてしまいます。たくさん客観データを集めて共有して議論を深めようというより、危機の下で「一致団結」するために異論は排除する、データの収集・選択・公開もコントロールする、というパターナリズムが一部で蔓延り始めているような印象があります。それは「不安が蔓延して混乱させないように」とか、あるいは「危機感を醸成しないと危ない」というある種の使命感・正義感のようものなのかもしれません。(これは私の主観的印象に過ぎず、見えてない動きもあるかもしれないので、「そんなことはない」という情報があれば聞いてみたいです。)

でも政治家もマスコミも専門家も100%正しい答えを持っているわけではありません。もちろん仮説もピンキリでかなり怪しいものもあるでしょう。そういった状況下で少しでも信頼できそうなデータや可能性のある仮説をできるだけ多く集め、オープンな議論の多様性を担保しながら、戦略の選択肢を増やすことでしか対処できないし、それが民主主義国におけるやり方だと思います。もちろん対策はタイミングや効果の最大化が重要なのは分かるし、一人ひとりは各自できることを頑張るしかないのですが、商店街や駅前に集まっている人たちをいちいち見つけ出しては非難するみたいな圧力をかける風潮は「それは違う」と言いたいです。

リスクを見積もるための努力を怠らない

「リスクが分からないときは最大で見積もる」という考え方も分からなくはないですが、そのリスクを少しでも正確に見積もるために可能な限りデータを集めて共有し議論する努力を放棄するのもなんか違うのではないかと思います。

行動の自粛や制限を必要に応じて各自やることは必要ですが、それがある種の正義感や社会的圧力の元で強制されるのは良くなくて、そういったやり方は立場の弱い人に半強制的にしわ寄せが押し付けられる形になるのではないかと危惧しています(やるなら法的な強制力と補償の元でやるのがベストだと思います。)「みんな頑張ってるんだから1カ月くらい我慢しろ」と言うのは簡単ですが、それができる人とできない人の「格差」が確実に可視化されてきています。社会も経済も人間の体と同じで、頭で想像するよりはるかに複雑で多様な理屈と因果で回っているのだから、「命を守る」というシンプルな正義感だけで全てを押し通すような議論をしていては、本当の意味で命を守ることはできないのではないでしょうか。

見えない敵との手探り戦いの中でも、既に見えていること、少しづつ見え始めていることは増えているので、まずそこに注意深く目を向けて素朴な疑問や議論を封じることなく、「どれくらいのリスクがあるのか」を見定めるための議論をもっと盛り上げてほしいです。そして社会や経済、感染症の抱えるリスクを可視化し、どれくらいなら受け入れられるのか、といった議論も必要です。その議論をするためにはゼロリスクの実現は幻想だ、ということが前提にならなければなりません。そういった議論がもっと深まれば、どれくらいの自粛が必要なのか、どこに重点的に対策をすればいいのかということも自ずとコンセンサスが取れてくるのではないかと期待します。

まとめ

  • 複雑系である社会・経済・感染症に100%の答えやゼロリスクはないことを前提に
  • 人間はデータや事実に対して主観的に都合の良い解釈をしがちなことを忘れずに
  • 最新データの検証と素朴な疑問の発信、それに対する議論は根気良く続けるべき

なんだか分かりきったような結論になってしまいましたが、大事なことだと思うのであらためて言葉にしてみました。インターネットはこういったときこそ上手く活用すべきメディアであると思います。マクロの視点だけでなくミクロの視点でも質の高い議論をした方が結果的にたくさんの選択肢を担保することができます。

混迷を極める昨今ですが、世界に一日でも早く平和な日常が戻ってくることを願っています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました