ふとしたときに昔の「炎上プロジェクト」で身を粉にして働いた時のことを思い出すことがある。当時IT業界において炎上は日常茶飯事で大規模なプロジェクトほど火力も激しく、鎮火のために臨時エンジニアが大量に投入される。自分もそんな「火消し」の一人として投入されることが多かった。
火消しの役割はまずカオスと化したプロジェクトの全体像を「見える化」すること。炎上プロジェクトの特徴は個々の設計書やコードなどの成果物は大量にあるが、全体像を抽象化し問題点を把握する情報が不足している。問題の本質を掴んでそこにリソースを集中投資する必要があるが大抵できていないのでリソースが本質的な課題に集中せずに、個々の「やるべきこと」に分散し、それぞれが消耗し、責任回避と縦割りが蔓延る。それを打破するには立ち位置が自由で新規に投入されたエンジニアが必要だ。
私の得意分野は性能問題だった。チーム毎の情報を収集し、動的シーケンスやステートチャート等を描いて、ボトルネックがどこにあるのかを丹念に追求する。大量のコードを一通り読む必要もある。多くの場合、メモリ管理や排他制御のスコープがおかしいなどの問題が気付かれることもなく放置されている。
それらの雑魚敵を片っ端から片付けていくと、そのうち本質的な設計上の難問が見えてくる。そこまで来ると一兵卒ではどうにもならずマネジメントレベルでシビアな判断をすることになる。「どこまで後戻りが可能か」「改善の見通しがあるか」を内外とのギリギリの交渉の中で落としどころを見つけるのだ。
プロジェクトルームは臨時に確保されたフロアに長机を設置し、肩が触れ合うほど幅にノートPCを並べただけでインフルエンザが蔓延しそうな環境で「鶏小屋」と言われていた。そこに壁のない会議スペースで行われるプロジェクト推進会議で発せられる怒号が響き渡る。
怒号を聞きながら仕事をするのは辛い経験だが、既に炎上モードに入ったプロジェクトにおいて、それは「必要悪」であり、冷静に振り返ってみてもそれ以外のやり方があったとも思えない。炎上させてしまった時点で、外交に失敗して戦争になったのと同じで、逃げ出すか留まって戦うかの選択肢しかない。
実際、プロジェクトルームは戦場に近かった。食料と寝袋を持ち込み、泊まり込みのエンジニアが床に寝転がっていたし、自分も1週間家に帰らなかったり、数年ぶりの友人との再会を断ったこともあった。失踪する人、鬱になった人、突然倒れる人、家庭が崩壊しかかっていた人もいた。
さすがに命を取られることはないので、戦場に失礼だとは思うが、その場に居て経験している感覚は戦場のそれに近いのではないかと個人的に思う。いろいろな感覚を麻痺させてその場に適応しなければ生き残れないのではないかという生物としての危機感が常にあった。
幸い自分は持ち前の鈍感力とKY力を発揮したことで生き残ることができた。その後転職し、炎上PJからは遠ざかることにもなった。ただ、ときおり強烈にそのことを思い出すのは、ある種の「フラッシュバック」なのではないかという気がする。
過酷な環境を経験したことによって、その後少々の困難があっても「当時の経験に比べれば全然マシ」という感覚で乗り越えることができたと思うし、その後の仕事にもプラスの面があった。しかし、その代償として負った傷もやはりあったのではないか。
大量破壊兵器が投入され地獄と化した第一次世界大戦の戦場を経験した10代そこそこの兵士達の生き残りは、その後数十年を経て過去を振り返り「自分の青春そのもの」としてポジティブなイメージで捉えている人が少なくなかったという。過酷な環境で仲間と辛苦を共にし時に助け合いながら困難を乗り越え生き残った経験は何にも代えがたい思い出となったのではなかろうか。その感覚は痛いほど良く分かる。
たとえどれだけ過酷な経験だったとしても生き残った者は、その後を平穏に生きるために、過去をポジティブに捉え、「浄化」する必要に迫られる。それは主観的には人間の持つ自己治癒力のなせる技であり、救いでもあるが、客観的には生存者バイアスにすぎないのかもしれない。炎上PJの経験者・生存者はその意味や意義を過剰に見出そうとする傾向がある。個人としてはそれも良いかもしれないが、そのことと炎上の引き起こす悲劇については分けて考えなければならない。何かしら心の傷を残すようなことは、経験せずに済むのならその方が良いに決まっている。
だから、経験を武勇伝のように面白おかしく語ったり、そのことをもってマウントを取ることもできるけど、ほどほどにしておいた方が良さそうだ。それよりも兎にも角にも炎上しないためにはどうすれば良かったのか考え抜くこと。炎上PJの経験は本当にどうしようもなくなったときのためにこっそり取っておけばよいし、経験を生かす場がなかったとするなら、それは幸せなこと。過去の経験から感傷を切り離し、「炎上を経験しなくて済む世界」の実現のために努力することが悲劇の再生産を止めると思う。
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