生成系AIとの共生時代における学び

IT

ここ数年でChatGPTを筆頭に急激な進歩を遂げた生成系AI(大規模言語モデル)は現在思い付くかぎりのありとあらゆるところに実装され始めている。これらは今まで実現は難しいと言われていたAGI(Artificial General Intelligence:汎用人工知能)に近いと言われている。

汎用で何でもこなしてくれるので僕らのように情報を扱う職業であるIT関係の仕事を筆頭に士業と言われるような知識を扱う専門職への影響はかなり大きいと考えられている。(私も一応国に登録された情報処理安全確保支援士なので士業の一人)

春に公開されたGPT-4の性能は驚異的で唖然とする他ない。今まで専門家にしかできなかったような複雑な作業を自然言語で指示したり訂正も言葉で可能。たまに間違えることもあるものの文句一つ言わずにササっと答えを示してくれる。プログラミングなんて特に優秀で、欲しい機能を言葉で正しく伝えればその通りのコードを出力してくれる。これなら優秀な新入社員と変わらないどころか新入社員より低コストで仕事ができるかもしれない。

こうなってくると人間の仕事ってなんだろう?とかそもそも人間が学ぶ意味は?はたまた生きる意味とは?といった根源的な問いに嫌でも向き合わざるを得なくなってくる。僕は生成系AIがもたらすのは「権威としての知」の崩壊ではないかと思っている。

少なくとも、いわゆる「質の良い労働者」を大量生産するための教育はほぼ無意味になりつつある。知識を積み上げることの意味は知的シグナリング効果で権威を得てお金を稼ぐ、社会に貢献するということではもはやない。従来から学ぶことは自己実現のためであるという建前は何度も語られてはきたが、現実には社会の一員として何らかの役割を担い貢献するためには最低限必要な知識のフレームワークとその「証」が必要で退屈に耐えてそれらを習得できる者だけに知的な自己実現の恩恵が与えられてきたことは否めない。

もうその証の上に胡座をかいて「社会人」の顔をしていることはできなくなった。ChatGPTとどっこいどっこいのアウトプットを頭を捻らせながら「生成」することしかできない私に一体どんな権威があるというのか。そんなものは最初から無かったのだ。自分は今まで積み上げた学業とキャリアの長い旅路のある種の到達点にいるというのも思い上がりに過ぎない。

学び方とその目的、ひいては生き方を大きく変えるしかない。学校教育は基本的に現在の社会に出ていく上でもっともコスパが良さそうな知識を基礎として積み上げて学ぶようにカリキュラムが作られているが、本来学びとは「勉強」ではなく人間のもつ根源的な欲求に基づくものだ。社会に役に立つどうかという物差し自体が揺らいでいる中では何を学ぶのが正解かという問い自体に意味がない。

もちろんあらゆる学問に意味がないということではなく、人間が過去何千年にも渡って積み上げた知識の巨人の肩の上に乗らなければ僕らは日々飯を食うこともままならない脆弱な存在であることは間違いない。ただし生成系AIがその巨人の一部を肩代わりしようとしている時代では肩の上に乗るための「登り方」は確実に変わるだろう。もしかしたら巨人が掌の上に乗せてひょいっと肩の上に乗せてくれる可能性だってある。学問は苦行に耐えたものだけが巨人の肩の上に乗れるかのような特権ではなくなろうとしているのだ。

しばらくは生成系AIに「仕事が奪われる」という拒否反応もあると思うが、ご先祖様が産業革命で「機械に仕事を奪われる」と感じたのと同じで、そういった感情や現実的な問題とも上手く折り合いをつけながら、それが当たり前の世界に徐々に移行していくしかないのだろう。そのことを踏まえた上でAIのもたらすポジティブな面にも注目する必要がある。それが学びの解放だ。

学ぶことは「出会い」であり「驚き」であり「感動」であるはず。また何かを考えるために学びが必要なのであって、知能を持った生き物である私たちは元来自分の中の奥底に「考えたい」「学びたい」という欲求をもっている。生成系AIの力を借りれば自分が知りたいこと、理解したいこと、考えたいことを強力に後押ししてくれる。世の中なんてこんなものだろ、というニヒリズムに陥ることなく、この世界に疑問を持ち、考えて、面白がることができれば、きっと何らかの答えが返ってくる。それが、自分の人生に意味をもたらすことを知らなければならない。

まずこの欲求を呼び覚まし、「食べていくために学ぶ」のではなく「生きるために学ぶ」へ移行する。「人はパンのみにて生きるにあらず」ということを今度こそ心の底から実感し実践すべき時が来た。これはこれからの教育の最大のミッションになるのかもしれない。

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