レディ・プレイヤー1とサピエンス全史

レビュー

先日、話題の映画「レディ・プレイヤー1」を鑑賞しました。
スピルバーグ監督が帰ってきた!という感想も巷に溢れていますが、確かにこれはなかなかの完成度でした。観客がバーチャルリアリティ(以下VR)の世界への没入感を疑似体験できるような作りになっていますので、ぜひ映画館に足を運んで鑑賞されることをお勧めします。

なにより原作の「ゲームウォーズ」のストーリーが秀逸であったのだと思います。サイバー空間を扱ったSF作品というのはニューロマンサーを始めとするサイバーパンクブームの時代からいくつも産み出されてきたのでそれほど新しいテーマではないはずです。にもかかわらず「レディ・プレイヤー1」にSFとして新鮮な感動を覚えるのはなぜなんでしょうか?

結論から言うとこの作品の要は「仮想と現実の混合」あるいは「仮想と現実の逆転」にあったのではないかと思います。VRの技術は年々進化・拡大していますが、その用途についてのイメージはまだ貧弱で日常生活における活用については想像力が追い付いていないのが私の正直な感覚でした。本作は観客に現実の延長としての仮想空間のイメージを強烈に印象付けることに成功しています。

過去のVRを扱った作品でもバーチャル空間の世界はたくましい想像力をもって描かれてきました。それらは確かにもろ「バーチャル」でした。映画や小説という我々から見てすでに想像の産物であるフォーマットのなかに描かれた「さらに想像を超えた世界」。その表現は作者の想像力が余すところなく発揮されている訳ですが、架空の世界の中に描かれた架空のバーチャル空間というのは何かしら空想が過ぎるというか、鑑賞する人を置いてどこかにいってしまってるというか、どこかしらけさせる要素を含んでいました。

人間が無限の想像力を持っていることに疑問の余地はないですが、実際のところ今までに一度も見たことも経験したこともない世界を一から想像することは非常に困難です。例えば大昔の人にインターネットのことを言葉や絵で伝えて理解させることは大変困難であろうと思われます。一度も見たことがない世界を一目で理解するにはそれなりに蓄積されて理解の鍵となる知識や経験が必要です。レディ・プレイヤー1における鍵は80年代以降のポップカルチャーであり、インターネット時代のゲーム体験でした。僕らは子どもの頃からずっとこれらを接種し続けてきたことで、ある意味すでにVRの世界に片足を突っ込んで生きてきた。本作は敢えてそこに「全力でバックする」ことで映画の観客は自分の生きてきた世界の「バーチャルさ」に気付かされる訳です。

VRが、一から創造されるものではなく、すでに私たちの中にある膨大な記憶が形を帯びて表層化し共有されたものである、という事実は(黎明期のインターネットやwebがそうであったように)これが特別な世界ではなくちょっとだけ未来にあるもう一つの現実世界なんだなということを改めて実感させます。

ここで有名なユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」から一節を引用します。

では、ホモ・サピエンスはどうやってこの重大な限界を乗り越え、何万もの住民から成る都市や、何億もの民を支配する帝国を最終的に築いたのだろう? その秘密はおそらく、虚構の登場にある。厖大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾良く協力できるのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリは「虚構」を生み出し共有する能力こそが人間を人間たらしめる際立った特徴だったと主張しています。映画などの動画技術が生まれてからまだ100年ちょっとしか経っていませんが、この技術が人間の能力、すなわち記憶を共有し、現実と虚構を認識し、新たな虚構を再生産する能力、に与えた爆発的な影響は計り知れません。スピルバーグは映画監督としてそのことを身をもって実感していたのではないでしょうか。もっと大袈裟に言えばヒトが文字を使い膨大な記憶を記録し始めた頃からVRの歴史は始まっていたのかもしれません。

この先どのようにVRが広がっていくのかは全くわかりませんが、映画のように仮想現実が現実に対する大きな影響力を持つ世界になっていくのは間違いないと思います。というかすでにインターネットの動向は現実世界に対してかなりの影響を及ぼしており、今もその影響力は日々拡大していることに異論はないと思います。それはもはや「仮想」と呼ぶのも恥ずかしい当たり前の現実として受け入れられていくのでしょう。

最後に大分昔に悪ふざけで書いた記事をご紹介します。
アキバ・シティ・ブルース
ちょっとだけ想像力を働かせれば退屈な日常も仮想現実になるのです。

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