しばらくブログを更新していなかったので、ちょっと前に書き留めていた草稿に少し書き足して投稿します。ネタが古いですがご容赦を。
このブログでテーマを決めて連載ものとか書いてみようかなとかも考えているのですが、なかなか始まる気配がないですね~。
第二次大戦中にイギリスの政府機関でドイツのエニグマ暗号を解読し、ノイマン型コンピューターの基礎的概念を生み出した天才数学者の話。最近、自分も暗号に関わる仕事に携わっていることから興味を持った。率直な感想としてこの作品は近年でも稀にみる傑作だ。初めから最後まで飽きることなく物語に引き込まれていったが、最後はなにやら重い感情に包まれている自分がいた。この感じは何なのかもう少し噛み砕いてみる。
ストーリーの焦点は戦争、暗号やコンピューターというより、どちらかというと変人扱いされた氏の孤独や人生の戦いの方に当てられているように思う。
脚本を書いたグレアム・ムーアはアカデミー賞の授賞式で印象深いスピーチをしている。
「あなたはあなたのままでいい。」グレアム・ムーア氏・アカデミー賞授賞式でのスピーチが世界中で話題に
「自分と違う人」「自分の考えていることを理解しない人」に向き合うのは「言うは易し行うは難し」だ。外見の違いだけでなく内面の違い、精神の違いは互いに正確に認識するのも難しく、自分自身も客観視が難しい。若い頃は誰しもが自分と人との違いに悩み自分自信とは何なのかという問いにぶつかり七転八倒する。そして、傷付きながらも多くの人に出会う中で少しずつ自分と他者を受け入れることができるようになっていく。
重い気持ちに包まれたのは、自分自身にも「人と違う」という自己認識が少なからずあり、チューリングの人生に共鳴し、その感情が少し刺激されてしまったからだ。そしてストーリーの結末で重い現実を突きつけられたからに他ならない。チューリングは41歳、ちょうど今の自分と同じ歳でこの世を去った。当時はまだ性同一性障害が精神病や犯罪の一種のように扱われていた時代とはいえ、あまりにも悲しい最期だ。
科学の進歩には多くの「変人」が貢献してきたことは歴史が証明している。それは「変人」こそが周囲の空気を読まずに自らの興味や関心に愚直なまでに情熱を傾けることができたからだが、そういった性格、態度は社会との関係や人間関係に軋轢を生みやすい。だから、そういった人たちが、自分の関心に没頭し成果を上げるためにはそれが許されるだけの社会的な「環境」も必要だったはずだ。
映画では英国社会の厳しい現実も描いている反面で、チューリングと人々が一時的にせよ打ち解け連帯していく場面も描いている。たとえ社会的な圧力にあっても本質が何かを見失わず、理解できないことを理解しようと心を開いていくことは容易なことではない。
実験と検証に基づく近代科学がイギリスや欧州で花開いた理由は「キリスト教の盲目的信仰を宗教改革で打ち破ったから」ではなく、キリスト教によって唯一無二の真理の存在、すなわち神を信ずることができたからだ。それは自分の頭や既存の価値観だけでは理解できないことが存在することを神という超越した概念を通して受け入れ信じようとするオープンマインドの思考様式ではないかと思う。
あの厳しい時代にチューリングが活躍の場を与えられ、計り知れない遺産を後世に残すことができたのは当時の英国社会が、社会的な無理解や不寛容が蔓延る時代であったにせよ、最後にはそういった存在を受け入れる余地を持っていたからではないだろうか。
世界は今も無理解や不寛容を乗り越える努力を続けている。LGBTの権利を保護する動きは今や世界的な潮流であり、米国の最高裁判所も全州での同性婚を認め、日本でも自治体でLGBTを支援する取り組みが始まっている。とはいえ、日本はまだまだ寛容な社会からは遠いところにある気がする。それは神を意識する宗教に馴染みの薄い社会の中で「日本人」という空気を守ることで平和が維持されてきたからだと思うが、そのことがかえって不寛容につながっているのかもしれない。
しかし、人間とは本質的には異質なものを内包した複雑で多様な存在だと思う。ただ、まだその実態が解明されておらず人間自身にも良くわかっていないのだ。科学の最大・最後のテーマは人間自身の事を明らかにすることではないだろうか。人工知能が人間と区別できなくなる時代が訪れた時に、チューリングの発した次の問いが再び浮上するに違いない。
「Who am I?」
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