テクノロジーとイデオロギー

先月ついに40歳になってしまいました。40と言えば成熟した大人のイメージを持ちますが、自分自身はそのようなイメージに追いついている感が全くないのは困ったものです…^_^;。

ただ、成熟には程遠いとはいえ、少なくとも仕事に対する姿勢や世の中に対する見方・考え方などは少しづつ変わって来たなと感じます。10代、20代は何も考えずに目の前のことにぶつかって行くのに精一杯でした。世の中に対してもごく限られた視点でしか見ていなかったように思います。

僕は若い頃から思想的にはいわゆる「リベラル」偏向で、その傾向は基本的に今も引き継いでいるのですが、最近は「リベラル」とか「保守」とか「右翼」とか「左翼」とか「ネトウヨ」とかの言葉に対する警戒感が強くなってきました。こういった「特定の思想をカテゴライズする類の言葉」が使用されている時、何かを言っているようでいて、実は突き詰めると具体性がなかったり、煽ったり拡散することが目的になってしまって、冷静で正しい認識を妨げたり生産的な問題解決を遠ざけてしまうことが多いと感じるからです。これらの言葉が世の中を理解するために一定の役割を担ってきたことは事実ですが、最近はその弊害の方も目に付くようになってきました。

そう感じるようになってきたのは僕が歳を取ったからかもしれませんが、インターネットの影響も大きいと思います。マスメディアが世の中を動かしていた時代には多くの人を思想のもとに動員することが社会的な「闘争」において重要な意味を持っていました。現在でもそういった思想を軸とした組織化は行われているのですが、昔に比べると力が分散してきている印象があります。

個人的、具体的な現実、情報、知識、思考が一般人にも相互に見えるようになってきたので、社会に対する視点は限りなく多様になっており、価値相対的になってきています。昔は個別具体的な現実の問題をイデオロギーが抽象化して代弁してくれていましたが、ネットでは自分自身の具体的な情報を不特定多数と共有することができるため、思想に対する「渇き」が相対的に弱くなってきているのかもしれません。また、ネットでは特定の課題に対して一方的な見方だけでなく多角的な意見を短時間で集めることができるので意識的に努めれば思考の幅も広げることも容易になりました。

まったく予想もしていない異なる現実を生きる者同士が対等に結合・化学反応を起こし、新しいアイデアが生まれやすくなってきました。教育についてのハードルも昔に比べれば下がり始めています。大学入試や偏差値競争は依然としてありますが、専門知識へのアクセスはオンラインラーニングの登場により門戸を開き始めています。こういった動きが社会に与える影響は過小評価できないと思います。

限られた情報しかなかった時代では社会の中での自らの立ち位置を明確にした上で、資本家vs労働者、右翼vs左翼、保守vsリベラルといった大雑把な構図の元で綱引きをすることがパワーバランスを生み社会の安定と変革を担保してきました。今後もそういった構図は必要でしょうし、組織化もされていくと思います。しかし、この構図で綱引きするだけでは解決できない多種多様な課題が世の中に溢れていることも事実であり、今後ますます膨らんでいくと思われるときに、旧体制としての対立構造をただ温存するだけでは「左翼」も「右翼」も思考停止に近いです。日本の政治状況を見ていると「右傾化」よりも、そういった思想的思考停止状態に陥っているように見えるのが気になります。

たとえば「残業代ゼロ法案」なんてのも言葉がひとり歩きして議論が混乱しているわかりやすい事例です。従来の構図で見れば、労働者と強欲資本家の階級闘争の一種ということになるのですが、この問題は日本特有の労働慣行が孕む矛盾に対する挑戦といった側面もあり、旧来型の対立構図だけで議論していても進歩も解決もありません(このことは別記事でも書いてみたいテーマです。)。「大きな政府」「小さな政府」みたいな言葉もザックリしすぎていて不毛な議論に陥りそうです。大きい小さいは予算規模のことなのか、官僚組織のことなのか、視点が変われば考え方もまったく変わってきます。

現在の議会制度はこういった難しい課題についての解決能力が不足しているのではないでしょうか。今抱えている個々の社会問題は「素晴らしい思想を持った個人」が議員になり多数決で立法・執行することで解決するような問題ではなく、緻密で大量の知識・情報の分析と多種多様なアイデアの結合、多くの実験と検証、選択を必要とするものばかりです。議会だけでなく多くの人々の知識と知恵と蓄積した正確なデータをもっと政治に活用するための補助的な仕組みが必要だと思います。

今まではその役割を担ってきたのは官僚組織でしたが、官僚組織は組織維持が自己目的化しやすいので柔軟で変化を起こすような動きはあまり期待できません。オープンでシンプルな仕組みのもとに多種多様な人材と知識を集め切磋琢磨して政策を練り上げ、実行し、厳格に評価し駄目なら人もやり方も大胆に変える、時には権限を分散し複数の実験を行うといったやり方の方が健全で賢明ではないでしょうか。特定の営利・非営利組織に所属している人間が一部の役割を担っても良いと思います。重要なのは誰がやるかではなく何をやるかで、どれだけ社会や他者に資することをしたかを評価しその評価と権限をできるだけ一致させていく必要があると思います。

そんなイデオロギーを乗り越えるような理想社会は実現するでしょうか?テクノロジーの進歩は鍵の一つを握っていると思います。ただテクノロジーには負の面があることも紛れもない事実です。結局その功罪はそれを使う人間の意思次第ということになります。もしかすると人間の代わりに考える機械が世界を覆い尽くしてしまい人間は何も考えなくなるかもしれません。そう考えると、これからはモチベーションやモラル、創造性、主体性といった機械が肩代わりできない意思の力を育てることが教育の大きなテーマになっていくのではないでしょうか。イデオロギーやテクノロジーに安住せずに自由に問い続け考えることを止めてはいけないと思います。

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